KJRTK’s diary

KJRTKです。人生イージー。

世界でいちばんすきなひと (カイ)

こんにちは、カイです。今日は書くか書かないか迷ったのですが、自分の頭を整理するために文章を書くことにしました。

 

4日前の6月13日、午後9時54分。世界でいちばん好きなおばあちゃんがこの世を去りました。

 

僕の家は2世帯住宅で僕が大学で沖縄に移るまでずっとおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に生活してきました。

 

共働きの両親の代わりに、おばあちゃんは幼稚園の送り迎えにきてくれました。晴れた日は自転車の後ろに、雨の日は2人で落ち葉を拾いながら帰ったり。

朝ごはんを毎日食べさせてくれて、剣道の大会も必ず見に来てくれました。毎日三ツ矢サイダーチョコボールがストックされていて本当に甘やかされて育ちました。

 

小2の頃、小学校で兄の靴を隠して帰ってくると兄が裸足で帰ってきたことがありました。

お父さんはブチギレ、首根っこ掴まれて車に乗せられ山に捨てられそうになったことがあります。

その時車のドアで必死に抵抗しているとおばあちゃんがきて「うちで引き取ります」と助けてくれたことがありました。

10:0で僕に非があるにも関わらず。無条件で愛してくれました。

 

小中高毎日、朝学校に行く時見えなくなるまで手を振ってくれました。僕も必ず見えなくなるまで手を振っていました。

部活から帰ってくればご飯を作ってくれてそれを食べてまた剣道の道場に行く日々でした。

 

ケガをしたら手当てしてくれて、嫌なことがあったらずっと愚痴を聞いてくれました。

そして必ず最後には僕と兄ちゃんが世界で一番大切と言ってくれました。

 

沖縄に移ってからも僕は周りの友達からビックリされるくらい地元に帰っていました。

 

ばあちゃんたちが起きている日中はばあちゃんたちと過ごして、夜寝てから地元の友達と遊びに行く生活をしていました。

 

僕が免許をとって助手席にばあちゃんを乗せてご飯やさんに行く時ばあちゃんはいつもほんとに嬉しいそうでした。

「抱っこ紐で担いでた孫が車運転してくれるなんてなぁ〜」といつも笑っていました。

 

ばあちゃんは足が悪かったので車を降りたらいっつも手を繋いで店まで歩きました。それもとっても自慢げで嬉しそうでした。いつまでも一緒にご飯食いに行こうなぁ、手繋ごうなあと僕はいつも言っていました。ばあちゃんはそうゆうと本当に嬉しそうに「幸せや」とゆうてくれました。

 

6/13日夜、僕は友達の居酒屋に行ってました。

そしたら兄ちゃんから電話でLINEみろ!と

 

家族LINEを見たらばあちゃんが危ないから帰ってきて、とありました。

急いで次の日に帰るチケットを取った五分後、ばあちゃんは息を引き取りました。

 

その時は実感も何もなく、涙も出ず、まあとりあえず帰ろかという気持ちでした。

 

飛行機に乗って家族が迎えにきてくれて実家について、ただいま〜!っとゆうと、いつもは聞こえてくるはずのばあちゃんの声が聞こえなくてばあちゃんの部屋に行くと、ガランとした誰もおらへんばあちゃんの部屋をみて、頭より先に涙が止まりませんでした。

僕はばあちゃんが死ぬ前から、もしじいちゃん、ばあちゃんが死んだらいつもポジティブな俺でも、もたへんやろなぁっとゆってました。

でも実際、頭の中がゴチャゴチャで涙がでたり戻ったり、不思議な感覚でした。

 

その日、お通夜に行き、ばあちゃんの姿を見ると本当にいつもの寝てる感じでした。それでもまだ実感できずに変な気持ちでした。

 

その夜親族は24時間ばあちゃんのそばにいれるということで酔っ払った家族を家に送ってから1人でばあちゃんにあいに行きました。

そしたら顔を見た瞬間に涙が止まらなくなりました。人間というのは不思議なものでずっと泣いてると涙がでなくなるんですよ。水が全くでなくなって、あぁこんなに悲しいんか、と思いました。

それからばあちゃんの遺影を見ながら朝の4時くらいまで今までの思い出や、これからのこと、他にもいっぱいお喋りしていたら気持ちは落ち着いて、ありがとうってなりました。

 

そして朝家族がやってくるとみんなばあちゃんの顔が昨日よりわろてる!わろてる!と言っていました。確かに顔を見ると僕が寝る前よりもほがらかに笑っているような感じがしました。

 

僕の話聞いててくれてありがとうね、夢には出てきてくれへんかったけど、それもまた「カイちゃん!男がクヨクヨしたらあかん!」てゆうばあちゃんの性格らしいね。

 

反抗期で親の住んでる二階に上がりたくない時、時間割合わせる以外ずっと一階のおじいちゃんおばあちゃんに世話してもらった時期もありました。

ぐれずに、腐らずに大人になれたのは、そういう逃げ場を作ってくれたからやねぇ。ありがとう。

 

僕は人に何かするときにありがとうと言います。例えば、誰かを迎えに行った時や何か物を渡す時、普通なら迎えてもらう方、物を渡される方がありがとうというと思います。

 

これにはばあちゃんとの思い出があります。

たしか中学くらいのころ、ばあちゃんがいつも通りご飯を作ってくれて、ご飯を僕に渡すときにいつも通り「おおきに」と言いました。

 

その日はいつもばあちゃんが言っているそれが何故か気になり「なんで僕がしてもろてんのに、ばあちゃんがありがとうゆうん?」と聞きました。

するとばあちゃんは「ありがとう、ゆわれて嫌な顔する人おらへんやろ?ほれにご飯作っても食べてくれる人おらな意味ないやろ。やから自分がしてあげるあげるやなくて、相手がおって自分がおらしてもろてるゆうんに感謝や」と言われました。

 

その時小さいながらにすげえな、と心をうたれました。

それから中学でも高校でもプリントを配る時にもありがとう、消しゴムを誰かが落として拾って渡す時もありがとう、なんでもありがとうをいうようにしています。

だから変なヤツってゆわれるのかもしれませんねぇ

 

まあ色々書きましたが、ばあちゃんとの思い出は文字では書けないほどあります。

ばあちゃんが死んだら病んで頭もおかしなって死ぬかもしれんと思ってましたが、思ったより僕は元気です!

これも生きてる間に手繋いで飯行ったり、帰る時ハグしたり、手紙かいたり、電話したり、世界で一番好きって毎回伝えたり、ばあちゃんの味噌汁とカレーが世界一ってゆうて他のとこの食わへんかったり、ばあちゃんにもらった愛情を目一杯返して来たからこそ前向きに進めてます。

 

火葬が終わって骨を見た時もう頑張りすぎていて骨がモロモロでした。ほんまにがんばったんやなあばあちゃん。生前ばあちゃんが死んだら骨パクって指輪にするから許してやっていってました。家族で骨壺に詰めたあと、持っていってたビンに骨を入れました。

火葬場の人は驚いてました。「さっきまでめちゃくちゃ泣いてたのに、こ、こ、こいつ、ばあちゃんの骨を箸でほじくって瓶に入れてやがるぅ!」って感じでした。

最後瓶から骨がはみ出てて蓋が閉まらずにいると「お別れの時間です。」とゆわれ焦ったので「ばあちゃんごめんな、」と言って瓶からはみ出たばあちゃんの骨をポキッと折って投げました。

もう火葬場の人はドン引き、じいちゃんは「そんなことしたんなやあ」と僕にゆうけれど「じいちゃんも死んだら拾って指輪にしたる」とゆうと嬉しそうでした。結局みんなツンデレ

 

もしここまで読んでくれた方がいましたら、どうか、是非、悔いのないよう、会いたい人に会って、伝えたいことをいっぱい伝えてあげてください。そうしたら必ずくる最後にもけじめがつけられると思います。

 

ばあちゃん、ほんまにありがとう。

おかげさまで家族と友達運だけは最高に恵まれてるよ。

来る人来る人に自慢してくれてありがとう。

男前男前ゆうてくれてありがとう。

似てへんのに水泳の萩野選手に似てるゆうて新聞切り抜いて飾っててくれてありがとう。

手紙とか書いたの見える位置に飾ってボロボロなるまで読んでくれてありがとう。

ハリウッドスターなってもう一個の夢も叶えて天国沸かせるわな。兄ちゃんとも支えあっていきていくで、僕がおらん世界は煮えてへんと思うけどこっち煮えさしたら行くからね。またあう日まで後悔なく一日一日すごしてめちゃくちゃ土産話するわね。

ほんまにお疲れ様。世界で一番大好きやで。

斐。